幸せに「絶対にこれがなきゃ!」はない
母親が「毒親」だという女性の文章を読みました。
「毒親」って、あまりにも強い言葉で、この言葉だけでも、ちょっと苦しくなってしまいます。
私は親の愛情を受けて育ちました。
自分が望むタイミング、望む形で愛情を受け取れず、そのことで、寂しく感じたり、「私のこと、嫌いなのかな・・・」と幼心に不安を感じたりすることは、多少あったようには思うけれど。
根本的なところで、“親に愛されている”ということが揺らいだことはありません。
でも、親が自分の目の前にいるのに、その親から“愛されていない”。
毎日、何年も、そう感じながら生き続ける、そういう人もいることに、衝撃を覚えました。
その母親が「毒親」だという方の文章をいくつか読んだだけだけれど、それでも「やっぱり何かがないから幸せになれないってことではないんだなー」とも思いました。
とてもあたたかい人だと感じたんです。
それこそ、親からの愛情とか。
もう言葉にならないくらい、心の底から欲しているものが手に入らない現実があったとして。
その時に、どうするか。
「これが手に入らないから私は幸せになれない!」
この思いを手放して、顔を上げられるかどうか、なんだと思います。
「これ」があったら、確かに幸せを感じやすいのかもしれない。
でも、「これ」が自分の100%を形作るわけじゃない。
だとしたら・・・?「これ」が別の何かでも、別のやり方でも、幸せを感じられるのかもしれない。
「これ」に拘っていたら味わえない幸せを。
「毒親」となってしまったこのお母さんだって。
顔を上げられていたら、「これ」への拘りを手放せていたら、そう思ってしまいます。
自分を大切にすることって、
カッとなったから素直に相手に暴言をはくとか、
イライラしたから板チョコ3枚一気食いするとか、
そういうことじゃないんですよね。
本当に本当に自分の中で譲れないものを守れるかどうか。
「これ」に拘っていると「これ」自体がその譲れないものに思えがちだけれど、譲れないものってきっとその先にあるものなんですよね。
抽象的すぎてなんだかなーですが。
何かがないから幸せになれないのではなく、
何かがなくても幸せになれる。
譲れないものを守れる強さが私たちにはあるんだ、そう改めて気づかさせてもらえました。
だったら、その文章を読ませてよーって思うかもしれないけれど、ちょっとあまりにも言葉の持つ力が強すぎて、リンクする気になれないので、ごめんなさい。
その言葉の持つ力から私が感じたことだけ、シェアさせてくださいね。